核武装論

新書のコーナーを歩いていると西部先生の本が出ていたので思わず買ってしまった。

日本国憲法第2章の「戦争の放棄」は、戦後日本人に(自衛戦争をも否定してかかるほどに)「反戦」の思想を植えつけた、といわれています。「戦争の放棄」条項は、我々における「戦争の観念」を曖昧にし、我々の眼を「戦争の現実」から逸らせるのに、多大の貢献をした、とみるのが正しい判断ではないでしょうか。放棄されたのは戦争そのものではなく、戦争についての表現力であり観察眼であり行動法だったのです。

日本における核武装論というと議論されていないというか、議論が行えないような
状況になってしまっているというのは確かである。

まず非核三原則についてですが、「三原則」というのは明らかに偽りで、正しくは「二原則」と名づけるべきでしょう。非核三原則は、国家防衛の下駄はアメリカにあずけた、「核」を日本に持ち込もうが持ち込まなかろうが日本人の知ったことじゃない、という気分の表明に過ぎません。

「持ち込ませず」の部分が偽りであろうことは周知の事実だろうから、教えるときには
建前に過ぎないとか理想論ですよという必要もあるのではないだろうか。

まず、日本の敵国が日本に核攻撃を加えたら、次にアメリカはそれへのリタリエーション(報復)として日本の敵国を核攻撃し、続いて日本の敵国がICBMSLBMアメリカ本土を核攻撃する運びとなるので、アメリカは日本の敵国への報復代行を断念するという事態です。つまり「核の傘」は閉じられたままとなるという段取りです。

核の傘があるから大丈夫と本気で考えている人もまだ少なくないのだろう。アメリカが守ってくれるから
大丈夫だと信仰に近い気持ちがあったのだともいえる。

輿論を参照しつつ状況のなかで「諸徳の平衡」を的確に保ちえたとき、「賢明な指導」が人間・国家に与えられるでしょう。しかしこの世にえてして起こりがちなのは、とくに民主主義の時代にあって広がるのは、欲望や意見や行動の過剰な表出の挙げ句に生じた不徳の数々を、流行の人気としての「世論」にもとづいて、状況にその場かぎりで適応すべくあれこれの不徳を折衷するという「愚鈍な追随」の態度なのです。

ちなみに賢明な指導とは(正義/思慮/勇気/節制)から成り立っており、それらが過剰になるとそれぞれ
正義→抑圧、思慮→卑怯、勇気→蛮勇、節制→臆病となった結果、愚鈍な追随(抑圧/卑怯/蛮勇/臆病)に
なるという。引用部の後半はどこかの国のようだ。それにしても愚鈍な追随というのは嫌な言葉だ。
当たり前のことを書いているのだろうけど、ここまで突っ込んで考えてみたこともなかった内容ばかり
であった。時間をおいてもう一度じっくり読んでみたい。


核武装論――当たり前の話をしようではないか (講談社現代新書 1884)核武装論――当たり前の話をしようではないか (講談社現代新書 1884)
西部 邁

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